当記事は黄金のレガシーやヨカフイ族・蛮族クエストのネタバレを含み、考察みたいな要素も入ってしまっていますので、苦手な方はご注意ください。また本記事FF9のネタバレ・考察にも言及する形になってしまいましたので、未プレイの方はスミマセンが回避してください…。
クエストを進め復興が進む。

儀式や雪の精霊との関係が明らかになっていく。
大切な人を亡くしてから、故人のことをもっとを知りたいと思う。
どんな人だったのだろう。
どんなことに価値を置いて、何を正しいと思うのか。どんな人と付き合い、どう接してきたのか。どんな仕事をして何を感じていたのだろう。
母や伯母から話を聞くことで祖母と社会の関わりを知る。
祖母はいつだって優しかったけれど、育った土地柄なのか、元々そういう性格なのか、大雑把というか言葉が強いというか、器が大きいというのか、内向的な僕にとっては刺激が強すぎると思うことが稀にあった。(僕の気が小さいのもあると思いますw)
今になって自分がどんなに大切にされていたかを知る。
不意に哀しみが一層深くなる。
こんなに大切にされていたのに、僕は何も返せていない。
でも同時に、優しく抱きしめられたような温かな気持ちと安堵にも包まれる。

彼女はまだ私の胸にいる……それで十分のはずなのに。
そう。それで十分なはずなのに、ね。
さっきまでそこにいたのに、昨日までここで話していたのに会えないから、もう二度と会えないから辛いんだよな。
これはたぶん、僕を大切にしてくれた人を、僕も大切に想っていた証なんだろう。
わからないけれど、そう思うことにしている。
そしてさらに復興が進み、ついに雪の精霊たちとの対峙。

死という概念がないから、もう二度と取り戻せない時間があることを理解できない。
無垢な子どものように純粋。
友に約束を守ってもらえなかった悲しさと寂しさ、そして何も言わずにいなくなってしまったことを受け入れられなかった雪の精霊たち。
僕はまだ、一番近しい家族との別離を経験していない。これはとても幸せなことだ。
でもだからこそ本当の意味でのさよならの力というものを、まだ理解できていないんだとも思う。
その証拠に僕はこんな事を書いている今でも、何かを覚悟するわけでもなく、できれば別離なんてもうしたくないなと思う。

精霊とヨカフイ族の違いと、生前墓とダートーゴーについて話す。
生きるってことは、永遠の命を持つことじゃない…。そう教えてくれたよね?助け合って生きていかなきゃ意味がないんだって…。
FF9ビビのセリフより。
ビビの辿り着いた答えに対する雪の精霊たちの行い。
死という概念がわからなくても、すぐに受け入れられなくても、死と生に向き合い誰かと関わりながらながら生きていく。”生きていく”ということは時に厳しく辛い現実が待っているけれど、その現実が変わるわけではないけれど、それはあなた次第で、あなたを蝕み誰かを傷つけることもできるし、誰かと手を取り助け合ってともに生きることもできる。
本クエストで示したいのはそういうことなんじゃないだろうかと感じた。
メインクエで揺さぶられすぎたから逆に不安になるんだけど大丈夫かこれw
急にトラルヴィドラールがでてきたりしないかw

経過はだいぶ省略させてもらいましたが、粛々と楽しんでいたクエストを無事クリア!
そして さよならの先 を想う。
哀しみを積み重ねながら生きていく。
誰に気づかれなくても、誰にも知られなくても、大切な人がただ見ていてくれる。
僕がしていくひとつひとつのことで僕を大切にしてくれた人を、悲しませたくない。
見守ってくれているというのは心の支えであり、自分を律する楔(くさび)でもある。
さよならの力とはこういう小さな心の支えであり、自分を律する楔こそが自分を創る柱に成り得る部分なんじゃないだろうか。
そうやって創られた自分が、誰かに関わることで生きる意味が生まれる。
共に過ごした時間があれば、自分が消えてなくなってしまっても、誰かの記憶に継がれていく。
わたしが死のうとも 君が生きている限り いのちは続く 永遠にその力の限り どこまでも続く
FF9主題歌 Melodies of Life より。
なんだかクエスト製作者の思うつぼかもw

温かな苦笑いをしながらトラルの霊峰を望むと、少しの哀しみを湛(たた)えた悠久の風に吹かれた気がした。
こんな僕にも別離はいつか来るんだろう。もちろん僕が先かもしれない。
どうあれ、僕も誰かにさよならの力を与えられるようになることが、僕のできる報いなのかもしれない。
そしてもし孤独に蝕まれても、歩いていきたいと思う。
“あなたがくれた想い出を心を癒す詩にして”



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