大きなコンテストを目標に、腰を据えた良い作品を一本書こうと決めたその日から、何も書けなくなった。
何度書いてみても、何を書いてみても、自分の書くものがひどくチンケなものに見えてしまう。
果たしてこれで合っているのだろうか。
気分を変えるためにブログの記事を書いてみても、見た映画の感想や読んだ本の感想を書いてみても、自分がゴミを創っているように思えてならない。
他人とは比較するべきではないと分かっていても、こんなときは素晴らしい作品に出合うのが辛い。
この世界にはこんなに素敵な作品を生み出せる人がいるのに、僕は何をしているんだろう。
並べてみると若い粗さや熟練の渋みといった、経験や個性といわれる味の差ではない。
才能の有無もあるかもしれないが、それを磨いてきた時間の量に打ちのめされた。
嫌なことほど連鎖するもので、僕が善意から差し出した手を切りつけられてからは、反芻思考が止まらなくなった。
雨に濡れた心が一枚ずつ、散っていく。
誰かのためを思ってやっていたことは、自分の力を誇示するためだけの汚い欲だったのだろうか。
泥に沈んで、濁って混ざった心が、淀んでいくのを眺めていることしかできない。
自分の利益のためであっても、一時でも僕を大切にしてくれた人を好きでいたかった。
きっと、どうにか嫌いになりたくなかったんだ。
言葉にできるようになったことで、僕の心の輪郭は濃くなったけれど、言葉にしてしまったことで、曖昧に留まっていた部分まで鮮明になって、僕の心から滴り落ちた。
僕はこの零れた部分を、子どもの頃に落としたお菓子のようにすぐに拾って三秒ルールで誤魔化して食べてしまうわけでもなく、拾い上げるわけでもなく、「ああ、落ちちゃったな」と思うだけだった。
使い慣れた植木バサミを握りしめても、冷たく感じない。
もう、言葉にしたくもない。
無為な時間を止めたくて、どうにか変えたくて、諦めながらも寄る辺を探すような気持ちであじさい寺に足を運んだ。
去年訪れたときには、曇り空に覗く晴れ間がもう暑かった。
海外からの観光客が多いらしく、特に中国語と思われる言葉があちらこちらで飛び交っていた。
僕が考えていたよりもずっと混雑していて、チケット制で時間ごとに入場制限をかけており、あじさい路に入るのに一時間待ちだった。
観るのをやめようかとも思ったが、結局一時間待つことにして、その時間で観音様や彫り物を見た。
ここでもやはり中国語が飛び交っていて、イントネーションのせいなのか怒ったように聞こえてしまって少し身がすくんだ。
中でも印象的で今でも覚えている出来事がある。
年の頃なら六十代後半だろうか。
ライトブルーのジーンズにグレーのポロシャツ。ふわりと被った麦わらのハットが鯔背(いなせ)だ。
少し離れたところにいる奥様に話しかけているのだろうか。
聞き耳を立てているわけではないが、ボリュームが結構あったため声が耳に入ってきていた。
中国語で何を言っているのかはわからない。
マスクを着けているため声がくぐもって聞こえているが、彼の身振り手振りは明らかにイラついていた。
マスクを外して奥様に向かって話すも、奥様は聞こえていないのか頭上には?が浮いている。
渋々近づいた彼が、ゆっくりと、そして大きな声で喋った。
「入口!違う!」
日本語だった。
「何度も言ってるだろ~!入口違うって!わかるだろ!」
舌っ足らずな言葉で僕の推測ではたぶんそう言った。
いや、わからんて。
観音様でもそうツッコミを入れると思った。
その後の奥様も日本語だったため、彼はどうやら滑舌が悪いだけの日本人だったらしい。
その後に見た紫陽花は勿論素晴らしかったのだが、僕の記憶は鯔背な彼に引っ張られてしまった。
紫陽花より鮮烈な記憶を残さないで欲しいと思うなどしたが、仕方がない。
そして今年。
雨の日の平日だったこともあり待つこともなく、鮮烈な出会いを果たすこともなく、あじさい路を進んだ。
雨に濡れた土の匂い、雫を浮かばせる蜘蛛の巣、傾斜に満開の紫陽花。
どれも美しいのに、心は動かなかった。
去年とは違う表情を楽しんだとか、この衝動を言葉にしたいとか、そういった高揚感はなく、紫陽花や景色が美しいほど、その美しさに心が動かない自分の冷たさが漠然と辛い。
不意にサイレンが鳴って、津波警報発令の知らせが轟いた。
「津波!ここから見てみたいかも!」
先を行く女性二人組の会話だ。
こいつらはきっと知らないのだ。
津波で攫われた街の姿、立ち込める腐臭、飛び交う蝿。
この臭さが魚のものであって欲しいという思いや、ベンチに腰掛け、海ともなく遠くを見る壮年の哀しき後ろ姿も。
大学の時分に見た、眼下に広がる絶望が紫陽花越しの景色に重なって、ことさらに心を抉る。
怒りとも呆れともつかない雲が希望を覆っていく。
こんなことを偉そうに書く僕こそ、他者の個性を嗤いものにし、無知を叩いている。
結局は津波に大切なものを飲み込まれた方々の気持ちを本当の意味で理解しているわけではない。
知らないというのは、幸福であり、不幸だ。
この場所は、思いもしない何かを教えてくれる。
水面に一石を投じるように、とっぷりとだけ音を立てて、静かに、僕の心に波紋を広げていく。
雨粒を弾ききれなくなった大きな葉が、重たげに傾いて、濁った池に沈んでいく。
未だ、書けず。
雨の日の苔が、瑞々しさを湛え神秘的な力を放つ。
六月八日、長谷寺の紫陽花は、咲き誇っている。

コメント