今考えれば、あれは急性アルコール中毒だったのではと思うほど体調が悪くても仕事へ行ったし、飲み会後に会社に戻って仕事をしたりなんてこともあった。
どんなにお酒を飲んだとしても、それを理由に次の日を怠惰に過ごさない。
これは僕が社会人になってから徹底してきた、数少ないことのひとつだ。
旅行中でもそれは一緒である。
楽しいお酒を飲んだからこそ、いつも通り日々の積み重ねを続けるのが大人である。
そんなことを振り返りながら、迎えた二日目の朝。
無事、寝坊である。
自律した大人ってすごいね。
人生、中々思い通りにはならないよね。
身支度を整え、予定を省略して住吉大社へ。
ちなみにここまで続けて読んで下さった方は気になって仕方がないと思うので書いておくと、今日もTPKSである。
住吉っさんの歩き方より、正式参拝コースにある程度沿ってお参りさせて頂く。
神様にお参りさせて頂くのにTPKSというは、正直自分でもどうかと思うのだが、初めての一人旅なので勘弁頂きたい。
駅周辺はこぢんまりとして、観光地感が少ないが親しみがある。
午前中だからだろうか、境内の中は凛として澄んでいる。
反橋は渡ってみると見た目以上に急だった。
お参り後、Sさんと合流。
案内で”チン電”を乗る等して、フェルメール《真珠の耳飾りの少女》展開催の地、中ノ島美術館へ移動し、余裕を持って到着。
2024年10月5日~2025年2月11日にて開催された、モネ 睡蓮のとき では西洋美術館の脇、野口英世像のある通りまで並んだので、相当な混雑を覚悟していた。
入場時間で区切られていることもあったと思うがそれほど待たずに、と言うより比較的快適に入場し周ることができた。昼時を狙ったのも良かったのかもしれない。
入場後は解散し、それぞれの思うがままに観覧した。
レンブラントの『笑う男』は人が多かった。
『装飾的な壺の花』の、黒の静けさと冷たさが怖い。
静かで綺麗なものは、なんでこんなにも死を感じさせるんだろう。
咲く季節の違う花を書いてるのだろうか。こういうときに知識があれば、見える世界の解像度が上がるんだろうなと思う。
絵画の中に込められた感情やメッセージをもう少し汲み取れれば、もっと美術が好きになりそうだ。
もっとも、今は予備知識なしで心揺さぶられる衝撃と感動を楽しめている。
展示にて、段階を経てフェルメールや作品の魅力といった解説を観る。
蛇腹に折れたスロープを下りて、とうとう『真珠の耳飾りの少女』の元へ。
吸い込まれそうな目ってこういう目なのかもしれない。
目と目が合うと、僕の心の影さえも見透かされてしまいそうなのに、裁きも赦しもしない距離感を保ったままの視線。
悪戯っぽさを含んだ口元。
陰に咲く真珠の耳飾り。
なるほど、確かにこの三角は視線と思考を掴んで離さない。
立ち止まることのできない通路。僅かな時間の鑑賞。
幸せな時間というのは、いつも短い。
言葉にしようもない根源的で歪で美しい衝動が、普段は覆い隠している魂の核から噴き出す。感化されるというのは、どうしてこんなに人生を豊かにしてくれるのだろう。
この”一瞬”に何を見て、どう感じるのか。
もっと見ていたい。やっと絵画が見れたのに、この素晴らしい時間が終わってしまう。
今のままじゃ、足りない?
真っ黒い僕の心の中に、白い文字が浮かんだ。
絵を見ているのか、絵に見られているのか、わからなくなった。
美しいものを観たのに、突き付けられた問いに答えを見つけられないまま、心は酷く散らかっていた。心が散らかっているのを確かに感じているのに、自分でも驚くくらいに客観的で、映画の一部分でもみているようだった。
ここで答えを急ぐことでは無いのかもしれない。
知らないことや分からないことは本当に多い。
しかし何も知識がなくても、芸術を愛するものとして、末席でこの感動と感情をしまって置くことくらいは許されるだろう。
少しフォーマルにして、真珠のカフスでもしていけば良かったなあ。
Sさんと合流して物販を見ながら、ガラスに反射したTPKSな自分をぼんやりと見ていたら、真珠もいいけどまずは裾からだったなと思うのであった。

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